100年前の世紀越え


 西暦1900年を中心とした100年前の世紀越えはどのようなものであったのであろうか。100年前には世紀末現象が起こっている。西暦1900年頃は実は非常に明るい時代であった。車や電気などが20世紀に普及するということがはっきりと予測され、20世紀は非常に良い時代なのだと、人々は未来に明るい展望をもっていた。 そして、平和で明るい時代は1914年の第1次世界大戦の勃発まで続いた。現在、世紀越え現象が起こっている20世紀末の日本とは比較にならない程、明るい時代であったのである。そのような楽天的な世の中の風潮の中で一部の人々が20世紀には神への信仰などが失われ、非常に恐ろしい時代が訪れると考えたのである。それが、世紀末現象である。この世紀末現象はパリを中心に主にフランスで起こっている。 100年前の世紀越えには大規模なカウントダウンをベースとしたイベントはなかったといわれている。そして、20世紀を提示したパリ万博が世紀越えイベントを代表する世紀のイベントであったといえる。 一方日本では、前にも触れたが1901年に慶応義塾大学が「19世紀、20世紀の歓送迎会」を500人の規模で開催している。 1900年(明治33年)12月31日、まさに19世紀が終わって20世紀を迎えようとする夜、慶應義塾では学生主催の世紀送迎会がにぎやかに行われた。参加者は約500名であった。そこでの送迎の辞は、「19世紀の文明は自然科学の勝利であったが、科学の進歩は貧富の不平等を起こした。また、政治上思想上の奴隷を救うをもって始まった19世紀は経済上物質上の奴隷をつくるをもって終わった。19世紀は絢爛たる文明の花を咲かせたが、これを培養して見事に結実せしめるのは実に20世紀に生きる我らの責務である」と述べている。祝辞のあと晩餐に入った。会場には歴史的風刺画が数十枚も掲げられて来会者の興味をそそった。ナポレオン、黒船、日清戦争などが描かれていた。12時近くになって一同は運動場に移った。そこには、大かがり火がたかれ、カンテラが林立して昼を欺くほどの明るさであったという。儒学者の夢や階級制度の弊害、蓄妾の醜態などが表された3面の風刺画をはじめ、福沢諭吉の寓意による風刺画などが掲げられていた。12時になると学生が3つの風刺画に対して一斉射撃を行い、それと同時に火が点じられると焔があがって、19世紀の悪習が消えてなくなり、20センチュリーの文字がくっきりと浮かび上がったという。最後に万歳三唱をして1901年1月1日午前0時20分に解散した。慶應義塾学生主催の「19世紀、20世紀の歓送迎会」は、このようにいかにも日本的な世紀越えイベントであった。西暦2000年到来にはどのような意味があるのだろうか。 西暦というものは西洋の暦と認識されている。しかし、西暦を西洋の暦であるというほど、西洋の暦は一律ではない。 キリストの生誕の年と推定された年を第1年とする西暦は、6世紀にローマの修道僧が考案した。そして、欧州の一部の国で採用されるようになったのは10世紀頃であるといわれている。しかしながら、そのときの西暦は現在のグレゴリオ暦ではなくユリウス暦であった。ユリウス暦はユリウス・カエサルが紀元前46年に導入した。この頃にローマ人が用いていた暦は太陰暦であった。1年が355日であり暦と季節のずれが生じていたのである。そこでユリウス・カエサルは太陰暦を1年を365.25日とする太陽暦であるユリウス暦に改暦したのである。このユリウス暦は、法王グレゴリウス13世によって改暦されるまで1627年間も使用された。 そしてその後、上述のように法王グレゴリウス13世によって1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦された。ユリウス暦は1年を365.25日としおり、130年に1日ずつずれてしまうので改暦をする必要が出てきたのである。ユリウス暦では季節がだんだんずれしまい、3月21日の春分の日になってもまだ寒いという状況が生まれた。季節と暦があわなくなってしまったのである。そこでグレゴレオ歴に改暦したのであるが、カトリックは1582年にすぐにグレゴリオ暦を取り入れたが、プロテスタントは取り入れず、1700年頃からやっとグレゴレオ歴を使用し始めた。この様に、イギリスやアメリカが西暦(グレゴリオ暦)を使用したのは、1752年(18世紀)からであった。 ギリシャは1920年にグレゴリオ暦に改暦しており、20世紀に入ってからである。 そういう意味で、18世紀までヨ−ロッパでは正月の時期も違っており、現在の西暦というものが西洋の暦であると考えるより、むしろ、グレゴリオ暦という太陽暦の新暦であると解釈した方が良いのである。20世紀末の現在でも暦というのは非常に多様である。ロシアの教会は現在もユリウス暦を使っている。したがって、ロシアの教会ではクリスマスを西暦(グレゴリオ歴)の1月に入ってから行っている。イラン暦(ジカラリ−歴)では春分の日が一年の始まりであり、エチオピアでは9月6日が新年になり、西暦(グレゴリオ暦)の7年遅れである。また、ユダヤ教徒は天地創造とされる紀元前3760年、一部のヒンズー教徒は暗黒時代の始まりとされる3102年、イスラム教徒はマホメットがメディナに移った紀元622年が暦の始まりとしている。この様に世界中には多様な暦があるのである.そして、イランのカレンダーには太陽暦のイラン暦、太陰暦のイスラム暦、並びに西暦が一緒に書かれている。断食などの宗教行事を除いて主な行事はイラン暦に従い、イランの人が西暦を利用することはほとんどないという。しかしながら、日本の年号を知らなくてもグローバルスタンダードとなりつつあるグレゴリオ暦を知らないわけではないのである。一方、1日のかわり目も、グリニッジ天文台の西経0度線を基準にした日付変更線を境に午前0時に日付が変わるというのが決まっているが、イスラムでは夕方が 1日の始まりであり、ユダヤ暦では午後6時が1日の始まりとなっている。日本においても午前0時に日付が変わると考えるようになったのは明治以降である。江戸時代は夜明けが一日の始まりであると考えるのが一般的であった。 このように、西暦を単純に西洋の暦と狭く解釈することには問題が多いといえる。 それでは西暦はキリスト教の暦であるといえるだろうか。確かに、西暦という概念はアンノ・ドミニ(anno domini、主の年から)というキリスト紀元に由来している。しかし、キリストが生誕したのは紀元前4年であり計算違いであることが後に明らかになっている。 また、ヨーロッパでキリスト教が国教化される頃の暦にはオリンピアド紀元(BC776年)やローマ建国紀元(BC753年)などがあった。キリスト紀元は525年にローマ在住のスキティアの僧、ディオニシウス・エクシグウスによって復活祭の暦を作成する際に提案された。しかしながら、キリスト紀元は17世紀中旬に広まったのである。フランスのイエズス会のドメニクス・ペタヴィウスが「時間原則について」という著書で提案したのがきっかけとなった。そして、西暦(グレゴリオ暦)はカトリックにはすぐに受け入れられたが、プロテスタントからは拒絶され続けたのである。 したがって、一概に西暦をキリスト教の暦であると決めることもできないことがわかる。 西暦(グレゴリオ暦)は暦として現代人に利用しやすいグローバルスタンダードなのである。そのグローバルスタンダードの暦が2000年という区切りの数字になると考えるのが自然である。西暦は確かに西洋の暦であったが、地球と月と太陽の関係をうまくとらえた地球の暦となりつつあるのである。西暦2000年を目前にして、人類は共通の暦を使用するようになった。地球上の個性ある地域の暦を大切に守り育てると同時に、グローバルスタンダードとしての地球暦である西暦は人類共通の財産であるといえるように思われる。


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